今昔物語

あたくしのように常日頃あらぬ妄想に耽る癖のある人間は、なんてことのないものを見てもついついど~でもいいような連想を働かせてしまうんであります。

 

先日ホームセンターのレジに金属製で伸縮式の孫の手が売っておりました。

自分の会計を待ちながら考えるともなく考えるに、孫の手という名前の由来とはどんなことであろうかと。

 

身体が硬くなって背中に手が回らなくなったお年寄りが「お~い、マコトちゃん。おじいちゃんの背中掻いておくれ」って感じ?

そこに浮かぶのは三世代同居する古き良き日本の家庭風景であり、お味噌汁の冷めない距離以上に近しいまさに孫の手の届く距離とでもいいましょうか。

 

「個人」や「自由」を至上とする西洋型リベラリズムの横溢が孤老や孤独死など現代日本の抱える闇を招いた一因であるならば、こんなに小さな道具の呼称の中にも生きているあたくしたちの原風景が呼びかけるのは、昨今何やら底意をもってとしか思われないほどやたらもてはやされる「おひとり様」なるものへのアンチではなかろうかと。

ところが

 

先ほどふと思って調べてみたところ孫の手の由来は中国の神話に出てくる麻姑(まこ)という仙女なんだそうで、彼女の手の爪が細長く背中掻いてもらったらさぞ気持ちいいんだろうなというところから来たのだという。

 

全然違うじゃん!

 

今昔物語の中だったかなあ?お寺の獅子の向きが普通と違うのを見て「あの獅子の立てられよう深き故あらん」と感涙にむせんでいたら、実は子供のいたずらであったという僧正の話がありました。

何か似てますよね (^_^.)

 

で、これまた調べてみたら

 

徒然草でした・・・

 

全然違うじゃん!!