昨日の続き
今朝からジーパンにしました
A吉のロックンロールが土着に根差した親和性だとするとU也のそれは、出自からして洋楽の和訳焼き直しであるロカビリーという底の浅さ、そもそもはロックに乗らない細い声質、にもかかわらず先達であるということのみによって作られた大物感のもたらした不幸な誤解であったのかもしれません。
改めて動画を探してみるとかつてU也が見出だしデビューに至り、後にスターとなった者たち、沢田研二、ジョー中山、一説にはA 吉もそうであったという、との共演が数多く見られ、それはまるでマンガ「ストップひばり君」における梶先輩のように大学進学後の部活で通用しなかった挫折を母校の後輩たちを訪ねることで埋めるかのような印象をもたらすんであります。
そしてそこに思い至った時、ある想像に胸を突かれたんであります。
後に世に出る才能を見出だす目と耳とを持っていたとすればその客体としてのロックンロールなハートもまた本物であった事は疑いようがなく、だとすればロックスターを夢見ながらもそれが実力的に叶わないことを誰よりも知っていたのはU也自身に他ならず、だからこそステージ以外での奇異な言動や奇矯なスタイルを通じてしか「反動」というロックスピリッツをパフォーマンスするしかなかった事がU也の悲劇であったのです。
なおかつ世評はそれを本人の隠されたある種の歪んだ情動と関わりなく「変なおじさん=滑稽or道化」としてしか認識しなかった事もまた、最晩年に至るまでU也をあらゆる突拍子も無い袋小路へと追い込んだのかもしれません。
ここで再びA吉に戻りますと、滑稽という点では実はA吉にもそれが多々見られ、例えば流暢な英語で歌う楽曲を持ちながらパフォーマンスにおいては「OK」「レッツゴー」「カモン」のみが通用語であるかのような突っ込みどころがありながらも「あれだけの天才だからちょっと変わったところもあるよね」という冒頭の長嶋茂雄に通ずるような、得失点差でいうところのU也にとっての失点がA吉には得点にカウントされてしまうという、ここにおいてもスケール感の違いによる逆転現象となるのであります。
長々申し上げて参りましたがかつての銀幕スターが食うためにバラエティー番組で素を晒してまで生き残りを図るみっともなさに比べれば、最後まで膝を屈することなくたとえ笑われようが己を貫いたという意味で、やはりU也はロックンローラーとしての生を全うしたと言えるのかもしれません。
最期に繰り返しますが以上の事は全くあたくし個人の勝手な想像であって、A吉U也の実像は全然知りません。
ごめんU也。 A吉もごめん。