ヤザワとウチダ 前編

今朝はまた寒くってびっくりしました 

 

沢木耕太郎「敗れざるもの」のなかの一編「三人の三塁手」は、長嶋茂雄と同じポジションで同じ時期にジャイアンツに入団し巨星の影でスポットライト当たることなしに消えていった二人を描いたルポルタージュであります。

いつものように現場のエンディングテーマでヤザワが流れてくるとふとこの物語が浮かぶことがございまして。
無論エンターテイメントは野球と違い決まった席数しかない世界ではありませんが、それでも優劣というかどちらが上という感覚は持たれようという。
 
では誰を思い浮かべるかというと、それが故・内田裕也さんなんであります。
 
一般的に見れば比べること自体おかしいほどの存在差で端的に言ってスケールがまるで違うん
でありますが、日本におけるロックンロール黎明期から生涯をロックバカ(自分で言ってたし)として走り続けた人生はご本人の想いとは裏腹にどこか上滑りの滑稽さがありそもそもミュージシャンですらあったのか?とも思えるその姿は、70を過ぎてもなお輝き続けるスーパースターの影に隠れヤザワになれなかった無数の三塁手のひとりのように思えるんでありますよ。
時代もちょっと違うけど。
 
だからといって裕也さんの何を知っているわけではないけれども、あくまで「そんな感じ」としてあたくしがA吉とU也(以下敬称略)について思うところを申し上げたいと思います。
んな訳ですからのU也関係者の方、モックンとかもし読んでたらぐみんなたい。
 
はたしてA吉のみが持ち得、U也が持てなかったものとは何であったのでしょうか?
 
それなりに名を成したロッカーが後々やっちまいがちなことのひとつに日本と洋楽の融合ってのがありまして、それはあたかも明治の文豪SO石やO外が西洋近代文明と古来の日本人的感性の狭間で苦悩した如く、さんざっぱら洋楽の真似っこで食った挙げ句なんぼ真似してみても所詮その軛からは逃れられないと知った焦燥を民謡とロックのミックスリストみたいなので乗り越えようとするものの、それは例外なく失敗するんであります。
こりゃ逆説的に言えば訪日客がラーメン食うのにフォークとスプーン使うようなもんで、ヌードルハラスメントとかいってるようじゃ味としては感じられても所詮音を立ててすすり込むという身体行為抜きには伝統的食文化としてのラーメンを理解することは出来ないんであります。
だってさあ、そんなんやらなくたってよさこいソーランあるじゃん。
ここで
 
 
A吉の歌をトレースしたことのある方であればある違和感にお気づきになったのではないでしょうか?
例えば「アリよさらば」の中サビ
 
♪ 俺はごめんだ~ぜぃいい ひとりで~ぃ ゆくぜ~ぃい ♪
 
そう、こぶしが回ってるんであります。
誤解を恐れず極端に断じてしまうとA吉のロックは実は演歌にカテゴライズされるんであります。
 
あたくしごときにわかファンともいえない聞きかじりですら気づくこの事実?は、あるいは
A吉フリークの間では決して口にしてはならない一種のタブーなのかもしれません。
あのカッコいいA吉のロックンロールがよりによっておっさんが酒飲んで聞く演歌だと!
とか
かっこいいのは間違いない。
 
しかしながら、であるからこそA吉のロックはこれほどまでに日本人の心に強く深く刺さるんでありましょう。
こざかしい浅知恵でロックと日本の融合などと言わんでも、A吉のロックは既に我々に土着していたんであります。
そしてこの土着感こそがジャパニーズロックなどという陳腐な名称と一線を画す、まさにA吉の和魂洋才なんであります。
 
ここに気づいた時、観客総立ちの武道館のステージで「ロックンロ~ル!」を叫ぶA吉と、コマ劇場の舞台で若衆の担ぐ御輿の上に立ち「ま~つりだ祭りだ祭りだ!」を歌い上げるSAB朗の鼻の穴の形が同じく見えてくることでしょう。
 
だからといってA吉のロックンロールが井の中の蛙であるわけでは決してなくその海外進出において世評以上の成功を収めた事実は動かしがたく、とはいいながらかつて国内では無類の強さと絶対的人気を誇りながら海外雄飛ではことごとく失敗に終わった一人のゴルファーとキャッチフレーズに関してある符合を見るのは何ものかを暗示していると言えなくもありません。
 
すなわちビッグとジャンボという。
 
 Uの巻に続く